歴史探索の経緯(続き5)

三浦定夫先生宅訪問

1998年(平成10年)8月 池上先生が三浦先生宅に訪問した様に、私も池上先生宅に訪問し、先生から「フィールドワーク」の重要性を教えて頂きました。そして、池上先生同様、三浦先生が編纂し住民に配られた『外山開牧百年史』を携え先生宅に訪問し、門をたたき二人目として迎え入れられました。

これまでの経緯を説明し、外山開牧百年祭の時、中学1年生で式典に参加しており。恥ずかしながら『外山開牧百年史』に真摯に向き合ったのは池上先生の本を読んでからである事をお伝えしました。三浦先生が「中村さんは……どちらの中村さんかな?」百年史の移住民の項目のページを開き、中村喜左衛門→喜一→多喜男を指さし、自分は喜一の四男 新八の子であることを伝えました。

「ほう、中村喜一さんの……」感慨深い表情。

私の父新八は、私が生まれ5ヵ月後に他界。母は茨城県日立市の出身で、中村家の事については父の姉であるカツ伯母さんから聞いていたが、祖父喜一もカツ伯母さんが小学校4年生の時に他界した為、詳細は不明のままでした。この時、祖父喜一の事を先生に伺わなかったことが、今でも悔やまれます。

三浦先生は、大正11年11月に閉鎖された外山御料牧場の職員(育馬係御料牧場技手)三浦熊五郎氏のご子息で、外山で生まれ11歳まで御料牧場内の官舎(蛇塚)で過ごしていそうです。

大正11年11月に入り突然、11月いっぱいで牧場閉鎖の通達が届いたそうです。あまりに急で、次の赴任先が何処になるのかお父様の三浦熊五郎さんも知らされておらず、もしかしたら北海道新冠なる可能性が高いとのことで慌ただしく引越しの準備をしたそうです。

お父様の三浦熊五郎氏も馬事関連に赴任先が決まり新冠にはいかず盛岡にとどまることが出来たそうで、盛岡中学へて盛岡高等農林学校獣医学科卒業後、軍隊に入り33歳で終戦を迎え、戦後の混乱が落ち着いた頃に蛇塚に訪れたそうです。その時の心情を松尾芭蕉の詩で私に伝えてくださいました。

国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。【「国が破れ滅びても、山や河だけはむかしのままの姿で残っている。荒廃した城にも春はめぐり来るが、草木だけが生い茂るばかりだ」の詩を思い浮かべ、笠を置いて腰をおろし、いつまでも栄華盛衰の移ろいに涙したことであった。】

夏草や兵どもが夢の跡 【人気のないところに、今はただ夏草だけが生い茂るばかりだが、ここは、かつて義経主従や藤原一族の者たちが功名・栄華を夢見たところである。知るや知らずやこの夏草を眺めていると、すべてが一炊の夢と消えた哀れさに心が誘われる。】

「夏草や~」は松尾芭蕉の詩である事は知っていましたが詳しい意味は分かってなかったので帰宅後調べました。私が幼少期に過ごした蛇塚は「夢の跡」からだったことを知る事が出来ました。

三浦先生が百年史を編纂する経緯については、先生がお亡くなりになった後、奥様の幸子様より託された、思い出ノートの中に開牧百年祭後の記実がありました。私にお話しして頂いた以上に記載されていましたので掲載させて頂きました。それ以外で先生から伺った内容を記載します。

外山を去る者、外山に残る者の選択

御料牧場閉鎖で外山に残ったのは、第一次開拓期(外山牧場時代)からの入植者した者と、第二次開拓期(御料牧場時代)に入植し地元住人と結婚した者の一部が残ったそうです。

家も土地もあり生活の基盤が外山だったので他には行けないというのが理由でしたが、一番の決め手は、皇室がいつ戻られてもいいようにと残る者ものがほとんどだったようです。皇室の聖地がなくなるという事が理解(あるわけがない)できなかったのだと思います。宮内省は外山に残る移住民が路頭に迷わないよう、払い下げ下した岩手県外山種畜場に託したとの事です。

美しかった外山御料牧場(たぶん宮沢賢治が見ていた世界)

外山御料牧場は下総御料牧場と新冠御料牧場と違い、標高の高い高原地帯に作られた牧場で三か所の中で一番美しい牧場だったそうです。

御料牧場に続く道路に植えられていた右側に山桜並木、左側に李並木の通り。事務所前の庭園。高原地帯特有の移り変わる外山の四季。春・夏・秋と様々な高原植物が咲き乱れる牧場。本当に美しい牧場だったそうです。

『外山開牧百年史』実は未完成だった

百年史編纂に許された時間は2年間、とにかく時間がなかったそうです。ご自身の研究の原稿作成の中での編纂作業。資料が無い為、資料集めが一番大変だったそうです。

折角、外山の百年史を作るならば、岩手の馬と牧畜の歴史も掲載させたかったようです。アテルイの時代~南部藩制時代の南部馬の事、戊辰戦争に敗北し戦利品として官軍が何百頭という馬を厩から強奪した事等々、色々と構想し原稿も用意したようですが、編纂が間に合わなく断念したそうです。本当に残念そうでした。

掲載できなかった当時の写真を見せて頂き私が「あっ、これ蛇塚の深沢さんの裏から撮った写真ですね。ここが工藤さん宅で、川がこっち側にあって…」先生が何で知っているのかといった驚いた顔していました。

私は、幼少期4歳まで北ノ又から蛇塚に住んでいたお話をし、蛇塚冬季分校が開拓者の保育所の替わりで、毎日兄と二人で歩いて通っていたので山脈で場所が分かった事をお伝えしました。他の写真も『外山開牧百年史』の「外山の人家分布図」の頁を開き、どこで撮られた写真なのか私が伝えると。どうやら正解だった様でお喜びになっていました。

自分にとっては当たり前だったと思っていたのですが、数年後、同級生に蛇塚の写真をみせたところどこから撮った写真なのか全くわかっていませんでした。

三浦先生の決意

事の成り行きで百年史編纂する事になったのですが先生には確かな目的がありました。

1、 外山の歴史を書き残し世に残す。
2、 第一次・第二次開拓で入植した開拓民と、第三次食糧開拓で入植した開拓民の間に入り中を取り持つ。
3、 私が経験した差別の風評被害。冷害の新聞記事が出る度に心を痛めており。これから大人になる当時の私たちを心配し守る為だったそうです。

1と2は達成できたのですが、3が一番難し事だった様です。3の原因は御料牧場閉鎖した事から発生したのは明らかで、閉鎖は先生の責任ではないにも関わらすキチンと歴史を伝えられなかった事が悔やまれる様でした。現に私自身が知らなかったし先生にお会いした時点でも外山の現状は変わっていませんでした。

ですが、開牧百年祭の一年後、山歩き姿でリックを背負った池上先生が訪れた時は、驚きと同時に本当に嬉しかったそうです。『外山開牧百年史』を編纂した甲斐があった。と。

三浦先生との外山談義で話が長くなり、かなりの時間お邪魔していました。スケジュールを目一杯入れての帰省で、次の訪問先が決まっていた為、先生にお礼をいい慌て先生宅を後にしました。三浦先生も、宮沢賢治・池上先生同様に「外山愛」に溢れていると改めて実感したと同時に、「あっ! なぜ、地元住人が知らないのか」という肝心の事を聞きそびれてしまい。今度お伺いしたらお聞きしようと次の訪問先に車を走らせました。

その後、お二人から賜った「フィールドワーク」と『外山開牧百年史』がとてつもないパワーを発揮します。池上先生と三浦先生に私が出来る事でどうしてもお礼がしたく。外山の歴史は全く解明に至ってはいませんでしたが、この年の12月『宮沢賢治心象スケッチを読む』の朗読劇を東京ヤクルトホールにて上演致しました。

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