県営牧場・御料牧場の記憶を辿る
外山牧場の歴史は、明治9年、時の島惟精県令によって「県営外山牧場」が開かれたことに始まります。その後、民営の「産馬会社」に移管、さらに「産馬組合」へと運営が移ります。そして明治24年、当時の宮内省がこれを買い上げ、「外山御料牧場」となりました。
当時、全国には三つの御料牧場、つまり皇室のための牧場がありました。千葉県成田市にあった「下総御料牧場」、北海道新ひだか町の「新冠御料牧場」、そしてもう一つが、現在の盛岡市玉山区外山の「外山御料牧場」なのです。その後大正11年、外山御料牧場は突然解体され、「岩手県種畜場」 となり、今に至ります。
『外山節』で知られる「外山御料牧場」ですが、名前は聞いたことがあっても、実際にそこに何があり、どんなことが行われていたかを知る人はあまり多くはありません。今回は、この外山牧場にゆかりのある方々とともに現地を歩きながら、知られざる外山牧場の当時の姿の一端でもお伝えできればと思い、この紀行座談会を企画しました。
時代が生んだ「外山御料牧場」
金野 今日は、明治の県営外山牧場時代の場長で、初代の岩手県種畜場長も務められた一条牧夫氏のお孫さんの一條八平太さん、そして岩手県種畜場の四代目場長を務められた足澤勉氏の息子さんである足澤至さんと實さんご兄弟に来ていただきました。
また、外山のご出身で、10年以上に渡って外山御料牧場について調査を続け、外山の将来についても提言をされている中村辰司さんと、外山・薮川地区で、集落の生活文化の伝承やむらづくりの研究に取り組んでいる県立大学教授の倉原宗孝先生にもご同行いただきました。どうぞ よろしくお願いします。足澤さんは、幼い頃外山に住まわれていたそうですね。
足澤(至) はい。父が外山で場長をしていたのは、大正14年から昭和22年までで、家族が外山の官舎に引っ越したのは昭和元年だったそうです。私は昭和3年生まれで、小学校 の1年まで外山におりました。
金野 牧場に行くのはしばらくぶりですか?
足澤(至) それはもう、しばらくぶりというより何十年ぶりです。
中村 風景はすっかり変わってしまっていますが、当時の官舎や貴賓館のあった場所を覚えていらっしゃる方は数少ないので、ぜひいろいろと教えていただきたいと思います。
足澤(實) なにしろ幼かったので、覚えているといいのですが。
中村 今日、外山への往路は国道 455号(旧小本街道)を行くことにしましょう。一条牧夫氏時代に外山牧場へ行くためにはこの道を使ったようです。もっとも、その後ダムができていますから、ルートはだいぶ違っているかとは思いますが。
足澤(實) 私も当時この道を来たことがあります。ルートは違いますが小本街道のアップダウンは今も変わりませんね。当時は途中まで馬車で来たものです。
中村 そろそろ外山の集落です。私の実家は集落の入口に近い方にありました。そして、現在「岩手県農業研究センター畜産研究所 外山畜産研究室」になっている向かい側あたりに、明治10年に獣医学舎が設置されたそうです。
倉原 全国でも早い方だったんじゃないでしょうか。明治維新直後という感じですよね。
中村 そうですね。まず何といって も明治政府は、政策として畜産を奨励していました。その筆頭として動いていたのが、あの大久保利通です。彼は岩倉具視らとともに欧米を視察して、衣食住に畜産物が非常にたくさん使われているということを知ったんですね。
そして日本の文化を諸外国並みに高めるためには、何より 畜産を振興しなければならないと考えた訳です。また、馬の体格の大きさにも驚愕したと伝わっています。開国直後の日本にとっては脅威だったと思います。そこで帰国後すぐに馬牛羊の種畜改良をはじめとした畜産振興策がとられました。特に軍馬の改良は急務だった訳です。
倉原 なるほど。この辺りはかつて名馬の産地。そこに白羽の矢が立ち、島県令が県営牧場を開いたのですね。
中村 島県令という人は大分の出身で、幕末には勤王派として鳴らした人のようです。新政府には都合のいい人材でしたが、岩手では植民地の長官のように振る舞ったために、こちらではあまり評判のいい人じゃな かったようですねえ。
倉原 島県令は、外国人も連れて来ていますね。
中村 ええ、イギリス人のマッキノンを、いわゆる明治のお雇い外国人 として迎え、洋式農具を用いた開墾をさせています。
足澤(至) 外山は畜産の他に、開拓地としての使命もあったのです。
金野 その県営牧場がなぜ宮内省に買い取られ、御料牧場になったのでしょう。
中村 そのあたりの 詳細は全く謎に包まれています。ほとんどミステリーの世界ですね。まず皇室の話ですから、中々外に出て来ない。その証拠に、当時御料牧場で働いていた私たちのじいちゃんたちも、皇室タブーとして子孫にその経緯などを伝えずに亡くなっています。
倉原 明治天皇はずいぶん馬が好き だったようですね。
一條 そうなんですよ。明治天皇は、牧夫とともに岩手の産馬振興を行っていた上田農夫の持ち馬「金華山号」をいたく気に入り欲しがったそうです。そこで農夫が献上した。そのことが御料牧場となった直接のきっかけではないかと、私は思っています。
金野 上田農夫とは、岩手県議会の初代議長で、明治14年に産馬会社を設立した人ですね。
中村 その産馬会社で、後に経済的に問題が起きて組織の解体が迫られたことも、宮内省に売り渡した一つの理由かもしれません。
金野 牧夫と農夫、この名前には何か関連があるのですか。
一條 牧夫を外山に呼んだのが農夫です。当時二人とも違う名前でしたが、牧夫が「俺は名前を牧夫と変えて畜産をやる。お前は農夫と変えて農業をやれ」と言ったというエピソードがあります。
倉原 明治の人たちはやっぱり気骨がありますね。
外山牧場の記憶
中村 さて、この道が当時の外山御料牧場へ入る道ではないかと思うの ですが。
足澤(至) ああ、そうですね。ここに並木道がありましたね。
中村 当時を知るお年寄りの話で は、ヤマザクラとスモモの並木だったようです。
足澤(至) 門もありましたね。
中村 そうですね。何しろ御料牧場ですから、一般人が簡単に入ることができる所ではなかった訳です。
倉原 足澤さんがお住まいになっていたのは、どのあたりですか。
足澤(實) 道路が昔と変わっていてわかりにくいのですが、あの川の手前の辺りではないかと思いますね。
足澤(至) ああ、そうだな。 この 景色だった…。ここに白亜の立派な洋式の事務所、あそこに貴賓館があって、こっちに官舎がいくつか建っていました。実際に来て見ると、いろいろと思い出しますねえ。
金野 貴賓館とはどのような建物だったんですか。
足澤(至) 和風の建物で、皇室の方々がいらした時に泊まることを想定して造られていました。行在所ですね。
金野 行在所?
足澤(至) 天皇が住まいできる場所ということです。
足澤(實) そういえば、伏見宮さん(伏見宮博恭王、海軍の軍司令部総長を務めた)がウサギ撃ちに来られた時、客間にお泊まりになったよね。
足澤(至) そうそう、夕食の時にお酌をした記憶があるな。知事の子どもが夏休みに遊びに来たこともあったね。
中村 御料牧場時代には、盛岡の油町にある現在の「吉与酒店」が御料牧場の出張所となり、お酒やら日用品やら様々な物品の調達をしていました。
吉与さんに注文を出すために外山と直通電話も引かれていたそうですよ。その後、吉与さんの裏手にあった広い土地に馬を繋ぐ場所を設け、外山牧場から名馬をたくさん運んで馬の競りに出し、高値で取引されたとお聞きしました。
倉原 その当時の場長一家の暮らしはどのようなものだったのですか。
足澤(實) そうですねえ。小学校の登下校の時には馬車に乗っていました。馬車には菊の御紋が付いていて、2頭立てでした。 雪が降ると馬ソリが迎えに来てくれましたね。
倉原 それはすごいですね。
足澤(至) この馬車が通ると、村の人たちが仕事の手を休めてこちらに向かってお辞儀をするんですよ。
足澤(至) 子ども心にもなんだか申し訳ないなあと思っていました。
倉原 なるほど…。
足澤(實) 御料牧場が閉鎖になったのが大正11年、父が場長として赴任したのが大正14年ですから、当時はまだまだ御料牧場時代の香りが残っていたのだと思います。
倉原 食事はどうでしたか。
足澤(至) おやつには、牧場の牛乳やバターを使ったものがよく出まし た。ブラマンジェとかアヒルの卵を使ったカステラとか。
倉原 ブラマンジェとはどのようなものですか。
金野 牛乳や生クリームを固めて冷 やしたデザートですね。いやはや、大正時代にこの外山でそういうものが食べられていたんですねえ。
足澤(實) ワッフルに自家製の木いちごのジャムを付けたのがおいしかったな。
倉原 まさしく御料牧場時代の暮らを引き継いだという感じですね。
中村 御料牧場というのは基本的に自給自足なんです。それは単に皇室の食糧を作るということだけではなくて、欧米に負けないような立派な馬を育てて、それに乗ることのできる体格の人間も育てるという理想があったからのようです。
岩手の馬事文化を外山で再び…
倉原 そう言えば、戦前の映画で 「馬」というのがありましたね。 足澤(實) 高峰秀子が主演した映画ですね。
倉原 あの映画は岩手県を舞台とした馬を育てる少女の物語でしたが、あのロケ地は外山ではないのですか。
一條 あの映画の製作には、うちでずいぶん関わったようで、当時の写真などが残っています。ロケ地は安代(現在の安比周辺)や盛岡市内の馬検場、大宮神社、大釜駅などで、外山には来ていないと思います。私のおばが、乗馬シーンに高峰秀子の代役で出ています。
金野 広い大地を駆け抜けて行くようなシーンですね。
倉原 盛岡の馬検場のシーンも印象的でしたね。大変な賑わいで、馬産地として岩手が全国に知られていたことがよくわかります。
中村 明治から昭和の初めにかけて、岩手の馬のクオリティは本当に高いものだった訳です。それも一條さんのお祖父様や足澤さんのお父様が岩手の産馬に関して、並々ならぬ力を注いで下さったからですね。
金野 さて、それでは現在岩手県が管理している牧場の通行許可をもらってありますので、そこを通って当時の牧場を偲びつつ、大志田経由で帰りましょう。
中村 足澤場長時代には、主に盛岡の米内から大志田を抜けて外山に至るこの道を使ったようです。原敬による山田線の敷設には、そのあたりの思惑もあったと言われています。
倉原 馬などの輸送に鉄道を使うということですね。それにしても、牧場はかなり広いですね。
中村 ええ、御料牧場時代の地図を見ると、山や丘を越え東に向かって、岩泉町と接する辺りまで敷地だったようです。
足澤(至) あ!馬がいますね。親子かな。
金野 当時の外山牧場のイメージが広がりますね。
足澤(實) 乗馬したことなども思い出しますね。
中村 外山は本当にいいところなんです。確かに冬は寒いのですが、豊かな自然と、牧場のあった歴史を活かして、この集落ももう一度なんらかの開拓にチャレンジしてほしいと思っています。
倉原 そうですね。ここには牧場の広がる自然のほかに、現代という時代だからこそ見つめ活かしたい資源が沢山あると思います。食、伝統芸 能生活文化など、厳しい環境のなかで取り組んだ開拓の経験に学びつつ、私たちの時代の暮らしやまちづくりを育んでいきたいですね。