子供の頃、差別され嫌いだった故郷・外山
巖手縣岩手郡藪川村字外山(現盛岡市玉山区薮川外山)。盛岡市から東北約24㌔の距離にある標高800㍍の高原地帯にある本州一寒い寒冷地。私は昭和39年~昭和53年の中学を卒業するまで過ごした場所です。寒冷地ゆえの宿命で、年間を通じて霜が降りないのは6・7・8月のたった3か月。度重なる冷害の被害に遭う場所として認識されています。
その為、外山は「 日本のチベット」「陸の孤島」「2級僻地」「スズラン給食」「ほいど(乞食)村」「玉山村のお荷物地区」「秘密主義」「文明も文化も存在しない、作物も産業も出来ない貧しい場所」。昭和40~50年代は小本街道沿いに、ごみ処理埋立地もあり3K「臭い・汚い・気持ち悪い」と言われ。現代のように「コンプライアンス」重視という事がなかった昭和の時代は、ありとあらゆる差別用語のオンパレードが外山に向けられていました。
外山出身と言うことだけ、悪口を言われ、揶揄われ、馬鹿にされ、いじめられ、軽蔑される。今でいう「出身地ガチャ」状態。東京23区の方が東京都下を軽く見下したり、東京や横浜の方が北関東をディスルのは可愛いもので、当時はかなり強烈なものでした。父親の代から貧しい村であった事は聞いて認識していたし、度重なる冷害を経験している事から反抗できる要素が全く無い為、悔しいけれど受け入れるしかありませんでした。
それに加え、外山地区は「大ノ平」「葉水」「蛇塚」と三つの部落に分かれており「大ノ平」「葉水」と「蛇塚」の住人の間には隔たりがあり、小さな部落ながら独特の村社会が存在し「蛇塚」は低下層と位置づけられ、親の代から貧しく早くから父を亡くし片親だった私は、同級生の一人から難癖をつけられては徹底的に虐められながら中学校生活を過ごしてきました。この土地に住んでみたいという人は殆どいないでしょう。
私にとってふるさと外山は私の歴史から消し去りたい存在で、啄木の「ふるさとの山に向かひて言うことなし ふるさとの山はありがたきかな」という詩に対し、私の心情は…「そとやまの山に向かひて言いたくなし そとやまの山はデメリットかな」。誇る事も、自慢する事も、愛することも、夢も、希望もない外山。中学を卒業したら二度と戻る事は無いだろうと思っていました。
その後、盛岡市の岩手県立盛岡工業高等学校(デザイン科・演劇部所属)に進学し卒業後は、川崎市にあった多摩芸術学園 演劇科(現 多摩美術大学二部)に入学。在学中強制的に宮沢賢治を仕込まれ卒業。東京の舞台製作会社に就職を致しました。
歴史探訪のキッカケ
歴史探訪のキッカケは、東京日本橋三越劇場で上演した「花の元禄 後始末」というお芝居を東北地方に旅公演する事になり玉山村にも営業をかけさせて戴きました。私が玉山村出身という事もあり、平成7年 玉山村に完成した姫神ホールの杮落し公演として購入して頂いたことが始まりです。
平成8年5月の公演終了後の翌日お礼に伺った時、当時の玉山村村長 工藤久徳氏から「渋民にある工業団地から大きな企業が撤退する事。撤退に伴い玉山村は財政面で存亡の危機の状況であるあるため、玉山村が活性化につながる様な、企画・イベント・情報、等々何でもいいから村の出身者として考えてくれないか」という事を依頼されました。
「村の活性化につながる様なイベントを何か考えてもらえないか」ですが、玉山村各地域の事を調査はするが「石川啄木」以外で、活性化出来る様なモノも歴史も無く。まして、私の故郷薮川外山は全くの論外と思い調査すら致しませんでした。
1998年(平成10年)2月。東京で開催された岩手県人会「2月会」に出席した折、私の出身が薮川外山である事を聞いた宮沢賢治研究会の方が、宮沢賢治が何度も外山に行っていたという本を出版した先生がいらっしゃると教えていただきました。その時の心情は「はて? 辺鄙な外山に宮沢賢治が? 何で? 何しに?」素朴な疑問。(おもしろい事に数十年経った今でさえ、盛岡出身の方に賢治が外山に行っていた事を告げると、返ってくる答えは当時の私と同じ「何で? 何しに?」です。)
私の人生を変えた本との出合い
外山に何度も行っていたという本。それが、『池上雄三著書・宮沢賢治心象スケッチを読む』でした。昭和52年から10年間。静岡から藪川外山に毎年(4月)に通いつづけフィールドワークに徹し宮沢賢治が書き残した「北上山地の春」を含む一群の詩を「外山詩群」として確証をし『宮沢賢治心象スケッチを読む』を雄山閣出版より平成4年7月5日に出版(3千部・現在絶版)いたしました。
この本を手にし、表紙を開き読み始めた時から状況が変わりました。この先生マジで歩いてる。鳥肌が立ちました。読み進めていくと池上先生の本を通じて賢治の見ていた外山の風景・景色がいきなり私の頭に飛び込んできました。情景だけでなく、土の匂い。草の香り。風の音、山鳩の鳴き声、綺麗な青いグラデーションの空。頬をすり抜けていくような雲。木漏れ日の光。一瞬にて外山に引きずり込まれる様な現象。映画「アバター」のような世界の感覚とでも言いましょうか。
次にこれまで読んできた宮沢童話の作品の数々の一場面「あっ。雪渡り」「かしわ林」がフラッシュバック様に脳裏に映し出され不思議な感覚。後にも先にも本を読んでこの様な感覚になったのは初めてのことでした。自然の厳しさを日々学びながら私達は生活のため食べていくため、幼いころから歩いていた外山高原の野山を、賢治は自ら好んで歩いている。
保阪嘉内に宛てた「外山の四月のうた」と外山詩群五編。同じなのに光景なのに賢治は、外山を誇り、自慢し、愛し、賞賛し、夢と希望がはち切れそうな心情。それに対し、誇る事も、自慢する事も、愛することも、夢も、希望もない。全く正反対で天国と地獄の顔を持つ外山。私の全く知らない外山がそこにありました。
池上雄三先生がこの事実を実証するにあたり貴重な資料になったのが、三浦定夫先生が昭和51年(1976)今から約50年前「外山開牧百年祭」を行った時に、外山の歴史・産業・文化を編纂された記念として発行され出席者・関係者・地元住民に配られた非売品の『外山開牧百年史』でした。池上先生の本で紹介されていた『外山開牧百年史』のページを開いたまま、私は自分の本棚に急ぎ振り向き茶色の本を取り出しました。『外山開牧百年史』。「マジかよ!ヤッバ!」。池上先生の本は、外山の歴史の扉を開ける鍵(キッカケ)で、歴史の扉は三浦先生が編纂した『外山開牧百年史』でした。
※ この話の続きにご興味のある方は、以下の「歴史探索の経緯(続き)」をご覧下さい。