宮沢賢治と私 3– 「雨ニモマケズ」との出会い –

夏休みの宿題と、宮沢賢治と、母の背中

皆さん、夏の思い出といえば何を思い浮かべますか? ギラギラと照りつける太陽との冒険? それとも……山積みの宿題でしょうか。これは、夏休みの宿題がきっかけで宮沢賢治を嫌いになった私の、ちょっと特別な記憶と、今は亡き母との不思議なつながりを綴ったお話です。

ドリルと私と、終わらない夏休み

小学生の頃の私は、典型的な宿題先送りタイプ。夏休みが始まると壮大な計画だけは立てるのですが、結局は最終日に泣きながら取り組むのが常でした。特に、岩手県の外山という自然豊かな場所で育った私にとって、短い夏休みは遊びに全振り! 早朝のクワガタ・カブト採り、すぐに唇が紫になる川遊び、お祭り……誘惑が多すぎました。

関東に住む親戚の夏休みが40日あると聞いて、衝撃を受けたのを覚えています。外山の夏休みは、お盆が終わるとすぐ学校が始まる実質25日ほど。優等生の妻とは正反対で、私は見事に宿題をため込む「ちびまる子ちゃんタイプ」でした。

お盆の間は親戚の来訪ラッシュで宿題どころではなく、明けた8月17日には地元のお祭り「外山神社例大祭」が待っています。賑やかな出店、勇壮なさんさ踊り、地元ならではの外山節踊り――そんな楽しい時間に、宿題の「しゅ」の字も浮かびません。

母の説教、そして宮沢賢治と「雨ニモマケズ」との出会い

案の定、夏休み終盤の私の机の上には、手つかずのドリルと日記が鎮座していました。焦る私を見かねた母がついに宿題のチェックを開始。あまりの惨状に、母の雷が落ちます。「お~嫌だ! まったく、何やってたの!」……想像に難くないですよね(苦笑)。

ところが、ほとんど白紙のドリルのページをめくり終えた母の目が、裏表紙に留まり、説教がピタリと止まりました。「はて?」と思って母の視線を追うと、そこには宮沢賢治の『雨ニモマケズ』が印刷されていたのです。作品の解説と、賢治の短い生涯も併せて紹介されていました。母は、食い入るようにその詩を読み始めました。きっと、自分の半生と重なる部分があったのでしょう。

茨の道を生きてきた母の背中

私の母・ふくは、茨城県東海村の出身。十人兄弟の9番目という大家族で育ちました。中学卒業を目前に、先生から高校進学を勧められたにもかかわらず、兄に「女に教育はいらない」と言われ、その道を断念します。

親兄弟に相談せず、母方の親戚を頼りに単身で埼玉県蕨市の下駄屋に女中奉公に出ました。その後も、茨城県勝田市で兄弟と始めた旅館の女将、東京六本木のアマンド社長宅の家政婦、台湾の貿易商の家政婦と、さまざまな場所で懸命に働きました。

そして東京で、私の父である外山出身・中村建設社長の新八と見合い結婚します。長男が生まれ、新婚生活は順風満帆に見えましたが、戦後の食糧難の中で開拓地の申請が通り、一家は3年の約束で父の故郷・岩手県薮川の外山へ移住することに。

昭和39年1月、私が生まれました。しかし、わずか5カ月後、父は不慮の事故で亡くなります。当時、母は31歳。見知らぬ土地で乳飲み子を抱え、文字通りゼロからの生活が始まりました。

母と賢治、そして「雨ニモマケズ」

そんな苦労を重ねてきた母にとって、『雨ニモマケズ』に描かれた、どんな困難にも負けず、他者のために生きる賢治の姿は、自分の人生と重なるものがあったのだと思います。「世の中には、こんな立派な人がいるんだ」と、母は賢治を称え、「あなたもこうでなくてはならない!」と、私の怠けた生活態度まで引き合いに出して、説教はさらにヒートアップしました。

私はというと、初めて『雨ニモマケズ』を読んだとき、子ども心にこう思いました。「無理、無理! あたしゃ、こんな人間にはなれないよ。レベルが違う、違いすぎる!」もちろん、母が宿題を手伝ってくれるはずもなく、私は夜中までかかって、なんとか宿題を終えたのでした。

私にとっての宮沢賢治

その後、母は学校の図書室から宮沢賢治の作品を借りては読みふけるようになりました。そして、何かにつけては賢治の名を持ち出し、私を比較しては小言を言うようになったのです。

以来、私にとって宮沢賢治はなんとなく煙たい存在に。「要注意人物リスト」にインプットされ、作品も避けるようになりました。……にもかかわらず、なぜか賢治は折にふれて、私の前にひょっこり現れるのです。

母の遺したメッセージ

平成28年10月11日、母は静かに息を引き取りました。遺品を整理していたとき、古い家計簿のメモ欄に、ある言葉が繰り返し綴られているのを見つけました。

「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ 夏ノ暑サニモマケズ ガンバレ! ガンバレ!」

それは、困難な人生の中で自分自身を奮い立たせるための言葉であり、私たち子どもへの、力強い応援歌だったのだと思います。あの時、宿題ドリルの裏表紙で出会った『雨ニモマケズ』は、私にとって単なる詩ではなく、母の生き様そのものを象徴する、特別な作品となったのです。

雨ニモマケズ 宮澤賢治

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ※(「蔭」の「陰のつくり」に代えて「人がしら/髟のへん」)ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ[#「朿ヲ」はママ]負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

底本:「【新】校本宮澤賢治全集 第十三巻(上)覚書・手帳 本文篇」筑摩書房
1997(平成9)年7月30日初版第1刷発行

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