自己紹介 2– 書ききれなかったこと、あれこれ –

私の歴史探訪のはじまり

「自己紹介」の続きに興味を抱いていただき、ありがとうございます。

宮沢賢治が保阪嘉内に宛てた「外山の四月の詩」。賢治が何度も訪れた明治から大正にかけて外山には宮内省管轄の「外山御料牧場」がありました。そもそも「御料牧場」の御料ってなに?外山の住人でありながら私の知らない「外山」を求め始まった私の歴史探訪。

恥ずかしながらこの探訪をするまで全く外山の事を知りませんでした。「外山」だけでなく「馬」の事も「牛」の事も、盛岡市の成り立ちも、岩手県の成り立ちも、第二次世界大戦で多くの馬が犠牲になっていた事も、何一つ知りませんでした。私が知っていたのは、中学校まで過ごしただけの外山の歴史と厳しい気象と風景だけだった事に口惜しい気持ちになりました。

活性化依頼を受け外山の歴史探訪をしなかったらば「外山と馬の歴史」は本当にこの世から消え去っていたかもしれません。複雑に絡み合った疑問の数々。一つの疑問が解明すると新たな疑問が数多く発生し、それを一つ一つ解明すれば、また「新たな疑問にぶち当たる」の繰り返しで、たけのこ剥ぎかマトリョシカ人形の状態でした。

活性化って何だろう?活性化、難しいです。調査開始から26年、四半世紀以上経ちました。当時はまだ小中学校がありましたので子供たちに私のような辛い思いをしてほしくない。薮川外山を活性化の起爆剤になればと頑張ってきましたが、20年前から盛岡市には情報を提供し、その後も様々な活動してきましたが未だ活性化どころか市民に知らされていない状態です。

歴史は時の流れで、良いことも悪い事も起こります。良い事が続くわけがないのに悪い事はなかった事にしてしまいつじつまの合わない歴史になってしまいました。ベールに包まれていた本当の歴史を表に出し認識してもらいたいと思い作成した結果、この様な膨大な「外山の150年」という歴史探訪ホームページになってしまいました。ページボリュームは膨大ですが、気軽にお付き合いして頂ければ…と思っております。

第一次開拓期は宮沢賢治や保阪嘉内を教え導いた先生たちの青春時代が垣間見られます。第二次開拓期は宮沢賢治と保阪嘉内が実際に活動していた時代。第三次開拓期は宮沢賢治の遺志を受け継いだ人たちの人間模様が見られます。断っておきますが、私は歴史学者でも、宮沢賢治研究者でもありません。

自己紹介(さらに詳しく)

生年月日

昭和39(1964)年 1月30日 1時39分 満60歳 / 干支:辰司なのでもちろん辰年です。

血液型

O型ですが、A型と間違われます。

性格

吞兵衛で、人見知りで、お調子者で、頑固な小心者。人からは責任感が強く努力家で勉強家と言われる反面、馬鹿正直・明るい・能天気・雑草・天然馬鹿とよく言われます。

ですが私自身、責任感はやらざるを得ない状況になる為。努力家は不器用なので、いきなりでは慌てて何もできないから何度も反復練習しているだけです。勉強は本当に嫌いですので勉強家はありません。正直この歴史探訪はもうお腹一杯です(笑)。暗い雰囲気が嫌なので馬鹿正直・明るい・能天気・雑草・天然馬鹿はその通りだと自覚しています。

亡き妻からは「豆腐の根性・コンニャクの精神」と良くいじられていました。要は小心者ですね。また「がばいばあちゃん」ではないですが、行く先々で関係する人や物に偶然遭遇するたび「また腰にひもをつけて磁石をつけて歩いて来たのでしょう」と良く言われました。子供の頃から一人でいる事が当たり前で平気だったのですが、妻に先立たれから寂しがりである事を気づかされました。

仕事

現在の肩書は一般社団法人 外山御料牧場・開拓研究会の代表です。「外山」と「馬事」の歴史と資料を一般に公開する事を目的に2年前に設立しました。法人でなければ貴重な資料等をお借りできない為です。今年3月から盛岡市に移住し活動を再開致しました。

盛岡市に移住する前は、茨城県の一般財団法人 古河市地域振興公社が運営する「ネーブルパーク」という公園内(お馬のポニーと触れ合えます)にある蕎麦屋「ねいぶる庵」に勤めていました。手打ちできます。大学卒業後は、印刷業・デザイン会社・舞台製作会社と務めましたが、バブルとサリン事件に翻弄され事業部閉鎖、倒産2社と会社勤めは恵まれていませんでした。

好きなこと

①料理を作る事
小学校3年生から料理をしています。最初の料理は炒飯、見事に大失敗でした。家の事情で高校生から仕事に就くまで色々な職業のアルバイトをしましたが、飲食店が多かったです。まかないが付くから。喫茶店、レストラン、居酒屋、スナック、パフ、蕎麦屋、厨房を任されていたので和洋中折衷基本的な料理は作れます。妻の仕事が看護師だった事もあり結婚後、私が家にいる時の食事は私が板長でした。妻もお酒が好きだったので居酒屋の様な夕食でした。食べてくれる人が居ないとつまらないです。

②飲みニケーション
友人と美味し料理を食べ、お酒を飲みながらお話をする事。前は何時間でもOKでしたが、最近は体力の衰えを痛感しました。

③ニャンコとの生活
学生時代を除けば約50年のニャンコ歴です。結婚しなかなか子供に恵まれなかった時、妻が患者さんから「猫は幸運の象徴で、栃木では猫を飼うと子宝や夫婦仲、金銭面で吉をもたらすのよ」と言われたのがキッカケでした。(ニャンコについてはまたの機会に)

結果、子宝には恵まれませんでしたが、当初はアメリカンショートヘアの2匹でしたが、猫が猫を呼び保護猫が加わり最多5匹まで増え賑やかなニャンコ生活でした。5匹とも妻になついて私はニャンコごはん係。猫のピラミッド社会では最下層の様でした。3匹が長生きをしこの世を去り、妻の死去後1匹を里子に出し、盛岡に連れてきたのはモモ(女の子で15歳)というニャンコ1匹と新生活中です。

嫌いなこと

①舞台を諦める原因になったこの歴史探訪
ちょっと嫌かな?(生活の中心になってしまった為)

②宮沢賢治はチョット苦手
調べれば調べるほど謎の人物

③平気で嘘をつく人
周りを巻き込み大惨事に発展し知らん顔大嫌いです。

④お風呂
外山で生活していた小学生の時、私が水道管を凍結させてしまい、春まで側の沢からバケツで水を汲まなくてはいけなかった事と、学生時代は風呂付のアパートではなく銭湯通い。大学とバイトの往復で時間が無くカラスの行水に慣れてしまい長風呂が出来ません。

趣味

難しい質問です。子供のころから中学までは1日中TVと絵を描いていても飽きなかったものです。芝居作りは趣味なのか?映画・ドラマ・演劇鑑賞?映画・ドラマ・演劇作品はSFと人情喜劇が好きです。

《映画》『男はつらいよ』、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』、『スター・ウォーズ』。
《TVドラマ》『北の国から』、『ぽっかぽか』。《舞台》松竹新喜劇『藤山寛美』出演作品、劇団新感線作品。気が付いたらシリーズ作品ばかり。

食べ物

好き嫌いはありませんが、酒飲みなので甘いものが苦手。酒豪なのでお酒は全種類好きです。なぜかシャンパンだけは悪酔いします。料理はお酒に合う素材にあまり手をかけないシンプルなものが好きです。上げ膳据え膳の旅館生活にあこがれます。

服装

私服ファッションが苦手です。亡き妻にまかせっきりでこだわりが無く基本無頓着。制服・背広・仕事着考えなくていいので大歓迎。ただしTPOはしっかりわきまえる様に妻に教育されました。

至福の時

友人と酒を飲んでいる時。何も考えずボーっとしている時。ニャンコをいじくり回している時。

スポーツ

最近何もしていません。高校時代は自転車ツーリングが好きでした。今でもその自転車が狭い廊下に飾っています。スポーツはトラウマがあり苦手でした。外山小中学校時代、男5人女4人のクラスで9年間。運動会・マラソン・体力測定とすべて「びりっけつ」楽しい思い出などあるわけがなく、自分は運動音痴でスポーツは全くダメなのだと思っておりました。

ところが盛岡工業高等学校に入学したら私より遅い人が沢山いて、私の運動能力は上位クラスの下である事が判明。私は運動音痴ではなく外山の男子がずば抜けていた事を痛感しました。「万年びりっけつ」でなければスポーツを好きになっていたかもしれません。

思想

「暗いと不平を言うよりも、進んで明かりをつけましょう」。小学生の時TVから流れていたAGジャパンのCMが今も頭から離れません。母の影響で、不平不満文句ばかりを言って何もしない人が大嫌いで、結果「火中の栗を拾う」事になってしまう事が多々あります。小学3年生の時、自分で料理をするきっかけになった戒めの教えです。

座右の銘

池上雄三先生から学んだ「フィールドワーク・現場百篇・物事は現場で起こっている」
高原詩人伊藤勇雄氏が残した言葉「夢なくして何の人生ぞ」

特技

パソコンとかスマホとかモバイル系はからっきし駄目ですが、手先が器用で自分の手で作り出せる者は何でも作れます。演劇を始めたころは舞台美術・大道具が担当でしたので大工仕事は得意です。妻からは用務員と給食のオジサンと呼ばれていました。

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