外山開拓 50年の歩み– 伊藤勇雄 生誕百年記念誌より –

外山の開拓&指導者、伊藤勇雄の手記(1952~1953年)

私の畢生(ひっせい)の大事業

岩手の屋根北上山脈の背骨をなすところに岩手のチベットと称される藪川高原がある。ここは標高七五〇メートルの数千町歩にわたる丘陵地帯であって、ここに終戦後既に七十戸の開拓者が入植して自然的気候的あらゆる悪条件と闘いながら開拓の鍬をふるっている。ここでは七月二十三日に最も遅い霜が降ったことがあり、九月二十三日に最も早い霜がおりたことがある。五月七日に五寸の雪を見たことがある。

平均無霜期間三ヵ月という寒冷地帯であって稲作は勿論麦、小麦の栽培が不可能である。昭和二十六年の霜害には稗も収穫が半作以下であった。気候の冷害に耐え得ることで知られている稗でさえ年によって不作があるから、大豆小豆の如きは勿論である。

そばや燕(えん)麦を除いてあらゆる穀作はここでは不適であると言って差し支えない。日本人は元来米穀を主食とし穀作を唯一の農業とする民族であるから、日本人がここで生存し従来の如き農業経営を行うということは不適当な地帯と言わなければならない。

果樹について言えばここでは一切の果樹がない。りんご、ぶどう、梨、桃、梅など開花期の霜害のために結実しない。山に野生の栗も実らないのである。冷害は一年おきに或いは二年おきにしょっちゅう襲ってくる。

穀作に依存している既存の農家や開拓者は、その度毎に食物の飢饉(ききん)に悩まされるのである。春、雪の消えるのは岩手山麓の平原より1カ月遅く秋霜、雪のやってくるのは一ヶ月早い。ここには雪の下に閉ざされている生活が一年の半分以上である。

こういう気候的悪条件に加えて交通上の障害が甚だしい。唯一の馬車道である小本街道は、盛岡へ六里ないし十里であるから急傾斜と雪のためにトラック及び馬車の通じるのは暖かな夏の期間だけである。一番近い山田線大志田駅に通ずる道路は峻険(しゅんけん)な坂道で馬車も通じない二里の道である。このような陸の孤島のような交通不便な高山の部落に既存の農家と開拓者の百五十戸が住んでいるのである。

雄大なる畜産地帯

然(しか)し此の荒涼たる山岳地帯が岩手県下有数の畜産地帯で馬産地であったことは何人も知るところである。かつて盛岡農学校の前身農業伝習所が最初に設立されたのがここであり、御料牧場がここに在って優秀な馬を育成し、尚今は滝沢にある岩手県種畜場の本場が嘗(かつ)てはここにあったのである。現在岩手県種畜場の分場がここに在るが、その放牧地は一千数百町歩に及んでいる。ここには夏家畜の敵である虻蚊(あぶか)がほとんどいない。又ここに生産される牧草は外山の萩といって有名な程良質である。

文化のない村

ここには電燈もなく随(したが)ってラジオもない。流れの水を利用して年中稗を搗(つ)く水車の外に何の加工工場もない。菓子や日用品を売る店もなく診療所も医者もいない。重病人は戸板にのせて人々が担いで盛岡に運ぶ。ここには寺も僧侶もない。葬式の場合には三から四里もある玉山から僧侶を呼ぶ。

玉山藪川の組合村の役場は四里離れた玉山村に在る。部落の農協は破産状態で仕事をしている。ここでは大部分の人々は木炭を焼いて現金を得、米を買って生きているのであるが、食糧の配給所もなく大志田まで数里の山道を米を買いにおりて行かなければならない状態である。全く文化というものから遠く離れた原始人の如き生活がここにあるのだ。

指導者の力

私は三月二十二日(一九五二年)外山の学校で開拓の代表者と酪農問題について話し合ってみた。私は藪川の開拓は…

一、酪農で行わなければならないこと。
二、一戸平均耕馬一頭、乳牛五頭、緬羊十頭、豚三頭、ニワトリ五十羽の農家を経営する意気がなければならないこと(県の配分計画面積でこれ位の飼育は可能である)。
三、酪農工場を外山に建設し(又は導入)牛乳を工場に送り脱脂乳の還元を受けて中小家畜ニワトリを飼う。
四、そのためには五十戸が毎年乳牛一頭ずつ導入若しくは殖やして四ヵ年で工場建設を可能にすること。
五、そのために道路の開通、電灯の施設等を必要とすること。

等について説明し皆の意見を聞いた。その日その日の生活に追われ冷害に苦しんでいる開拓者達、意気消沈し未来に希望を持たぬ彼等にとっては全く夢のような話であったろう。しかし彼等も酪農に対する熱意を全く失くしていた訳ではなかった。彼等は何かしら夢と希望と光明を望んでいたのだ。私の提案に彼等は賛意を表した。然し彼等の或る者はこう言った。「然しそうした大事業をすすめて行指導者が私達の中に居ないんです」。そこで私は皆が一致して私の方針に随(したが)って進むことと色々な客観条件揃うならば、私が決然としてこの開拓地に乗り込んでもいいと言う意志を表明した。

私の念願

ここで私は私の日頃念願していることを述べてみたい。私は日本の開拓事業に欠けているものは信念であり思想でもありもっと突き詰めて言えば宗教であると考えている。実に信仰こそは荒地を変じて楽園とし地獄を天国とするところのものである。

世界がエゴに支配されているうちは、人は他人を強い物にすること、社会や国家を喰い物にすることをやめないであろう。開拓の指導者が団員を喰い物にし、公の機関を喰い物にする。補助も資金も農協も喰い物にされる怖れがある。

指導者は技術も必要であり政治力も外交的手腕も必要であるが、もっと必要なのは公のために殉ずる信念を必要とするのだ。開拓者を兄弟姉妹とし同一の家族とし共に苦しみ共に楽しむ私利利欲を考えない。この精神が指導者の基盤とならなければならない。私は現在の多くの開拓地に欠けているものはよい指導者であると考えている。

畜類を肥(ふと)らせ繁殖させる技術。機械や電力を使って新しい農耕をやる技術、そのような技術を自ら持つ指導者の欠乏と共に、それにもまして開拓精神を把握している指導者の欠乏は、実に岩手の開拓にとっても日本の開拓事業にとって悲しむべきことであると考えている。

私は老年に近づいている者であり、私の肉体は私の言うことを聞かなくなりつつあるけれども、私は日本の開拓事業の一つのサンプルをつくる為に岩手の開拓に筋金をいれる為に疲れ切った開拓地に生気を吹き込む為に敢然としてこの身体を一番困難な場所に提したいと思っている。この仕事を初めるに当たって、私は私の利益を考えず私の名誉を考えない。

しかもこの仕事に伴って教育に於いても一つの新しいサンプルをつくりたい。即ち開拓者を相手に行う教育及び日本の農業に活を与える農業教育、岩手の開拓に筋金を入れる開拓教育を藪川の高原で初めたいと思っているのである。

その教育とは働きながら学ぶ教育、学費も月謝もいらぬ教育、教師と生徒が共に生活しつつ互いに磨き合う教育、世界的人格を育成する教育、すぐれた技術人を生み出す教育、芸術即生活の教育、岩手県に於いて嘗(かつ)てない新しい教育なのである。

悲壮なる決意

五月九日玉山村へ行き村長や本山君等に外入植の挨拶をし、学校で座談会を開き夜本山君の宅に泊まった。座談会では村長をはじめ有志一同が私の入植は無謀であると言った。外山は人間が生活するに不適当な場所であり農家経営の不可能な場所であると言うのである。

私は楽観主義者の言(げん)よりも却(かえ)って真実を知る村民の意見を傾聴した。然し私はそれらの一切の悪条件を承知の上で入植するのである。私は日本に嘗(かつ)てない農業経営の型と生活の型をつくり出すのである。そして外山に於いて私の理想が実現されるならば岩手に於いて尚百万人の人口を養い得、日本に於いて人口食糧問題が一大転化を来すであろう。

即ちこの事業は敗戦後の日本の人口、食糧、農業問題に一大貢献する事業であると信ずるのだ。その為に私は成功せずんば死すとも山を下りないという固い決意を抱いて入植すると語った。

私は過去の種々の体験によって此の事業に必ず成功するという確信を持っている。私の言葉を皆はアッケにとられたような顔で聞いていた。そして遂には五年後十年後を見てから批判すると言った。そしてやらせて見るより仕方がないということになった。

玉山から帰って「ムソルグスキイの夜明け」という映画を見ている。涙が何とはなしにこぼれて仕方がなかった。映画の感激よりも私の事業に対する悲壮な決意の感激であった。何とはなしに神に祈るというような気持ちだ。この事業の成否は私の運命を支配する。私は私の全知全能を傾けて此の大事業と取り組む。困難大なる時私は却って勇気を百倍する。私の真価はこの事業によって現れてくるであろう。

計画は人に在り成敗は初に在り=ライファイゼン=(一九五二、五、九)

開拓地上部限界の試金石

県の藪川地区開拓計画書を見ると「県当局としては本事業の成否は県開拓適地上部限界の指導となり、今後県下寒冷地開発に及ぼす影響頗(すこぶ)る大なるものあるに鑑み、本地区に特仙台農地事務局係官の指導援助を得て精密な調査を行い適切なる計画を樹立し県下チベット地帯開発の範となる様地区計画樹立区として特に採択した」とその趣旨をのべている。

県の計画によれば一戸平均土地配分は畑五町五反、採草地四町五反、自家用薪炭林四町を合わせ十四町歩で、そこに馬一頭、乳牛二頭、緬羊十頭、鶏十羽の酪農家をつくらんとしている。此の計画は一見堅固(けんご)で妥当である。然しながらこの計画を実地に当て嵌めてみると、先ず酪農化は不可能に近い程困難な条件にある。既に既存の部落の人々は乳牛を入れて失敗した。それは生乳を盛岡に輸送することが困難だったからである。

大体人間の背で牛乳を大志田駅迄下ろすということは困難であり又トラックで盛岡に輸送するとすれば運賃に喰われて採算が成り立たない。しかもトラックの不通期間をどうするかという問題もある。そこで私は藪川の酪農化についていろいろ考えた末、ここの酪農
はオールオアナッシング。即ち大仕掛にやるか放棄するかより外にないとの結論に立ち至ったのである。

勿論乳牛をやめて和牛で行くということも馬産よりは遙かによいと思う。然人間の食糧の問題を考えても藪川は酪農で行くより外に道はない。然らば思い切って大仕掛な酪農郷をつくる為には酪農工場をここにつくるところまでもっていかなければならない。

ここに於いて工場建設を前提として私は藪川の酪農計画を立ててみた。それには一日三十石の乳を生産する為に二百頭以上の乳牛を飼育しなければならない。その為には家畜の導入、資金の調達、電灯の施設、あらゆる困難な仕事が山積する。開拓者には資金も又気力もない。少なくとも五十戸以上の開拓者及び部落農家が歩調を揃えて進む協力体制がなければならない。

牛、羊と倶(とも)に

一九五二年五月十五日、三台の自動車は盛岡から延々とした坂道を北東へ向けて山を登った。一台のトラックには私と妻、次男、末っ子の和雄そして牛と緬羊、山羊の仔、鶏(五羽)、ジョン(犬)と家財道具が積まれ、あとの二台は教育委員会が私の為に特に派遣してくれた自動車で、一台にはドラム潅(かん)(石油)の外荷物とあと一台は巡回映画の機械が積まれてあった。

県庁の小田耕一氏やイソ子の弟勇君、一緒に入植する薄衣(うすぎぬ)の菅原昭八君とお父さん、桶屋の菅原君等総勢十名数える私共一行は、それぞれ三台の車に分乗していた。天気は晴朗であった。麓は山が緑で草は青いのに山頂は枯木の山でわずかに柳が青い芽をふいていた。午後一時頃蛇塚(へびづか)に着く。

大工が造作を始めていたが一室しか出来上がらず、周囲の障子も戸も建て付けしないところに火を焚いて十八人の一行は旅装を解いた。にわか造(づく)りの炊事場で調理し夕飯をすまし八時頃学校に行った。学校の講堂には村の女や子供、年寄達など二百名も集まっていて私の手土産の映画が既に始まっていた。

映写の切れ目に小田氏が私を紹介し、私は村民の仲間入りをするという簡単な挨拶をした。
ここでは一年に一回位しか映画を見る機会がないということである。夜は非常に寒く一俵の木炭を一晩で焚いてしまう位であった。室の周囲に戸障子を並べてわずかに冷気を防ぎ入植の第一夜の寝についた。

建設の槌音

入植二日目の朝である。晴れた天気であった。明るい太陽は、地の霜を溶かし緑の芝生の広場には牛や羊が草を喰んでいた。私達の合宿長屋には賑やかな槌や鋸(のこ)、ノミの音が始まった。大工が造作をする。桶屋は風呂の修理をする。私は二男や昭八君や勇(いさむ)君を指揮して鶏小屋、犬小屋をつくらせる。

妻は荷物をほどいて家の中を片づける。すべてが忙しくそしてこころよい騒音にみちていた。牛も羊も山羊も自由の世界に解放されて広い草原を草を喰って歩いている。煙山の家にいた時は、彼等はや小屋の中に閉じこめられて時に外へ出されることがあってもロープでゆわえつけられていたのである。

犬さえ鎖を解かれて野原を楽しそうに飛び廻っている。「動物の天国」と私はひとり言を言った。私共の入っている長屋は元御料牧場時代の牧夫の寄宿舎で、徳田の青年達四人移動製材の人夫や入植者の工事に来ている大工など総勢十人位寄宿している。

その建物の南側の八畳と六畳の二室と台所が差し当たって私達に振り当てられた室である。隣に三畳の部屋があって学校の千葉先生がそこに泊まっている。南端に元の事務室で今は物置になっているガラス窓をめぐらした十畳位の部屋がある。これは私の物置兼書斎にすることができるので、私のかねての念願である閑静なところで物を書くことが実現されることになる。

耕地は厩舎の前の広場五町歩(湿地を含む)が私の地区である。土地は雑草の伸び具合から見て決して痩せ地ではないとにらんだ。又所々に野生のホワイトクローバーがあるのも土地の悪くない証である。この中に元畑として耕作したことのある大体五反歩の土地がある。これは簡単に掘り返し草を除きさえすれば播き付けが出来る。これは荒地を掘り返して播き付けする労力に比べると非常に助かるのである。差し当たって急がなければならないのは馬鈴薯と燕麦の播き付けである。

午前と午後のおやつには縁側の前の芝生にテーブルを置いて明るい日光の下で皆が休んだ。おやつのテーブルには人と一緒にライト(牛)が首を並べた。ヤンコ(仔山羊)は私達の側を離れずに畳の上迄自由に歩き廻り縁側に寝そべったりしている。今日は小田さんや桶屋の菅原君、昭八君のお父さん、巡回映画の人達などが帰って行った。鶯(うぐいす)の歌が日ねもす林の中に聞こえた。(一九五二、五、一六)

自然の変貌

岩手のチベット標高七百五十メートルのここ外山高原では春と夏とが一緒にやってくる。二朝ひどい霜が降ったあと一日雨が降り、蒸暑い夜があって二、三日の内に自然は見違えるように変貌した。

山桜の花が赤い若葉に変わり山李(すもも)が一斉に白い花をつけ落葉松が急に緑になった。鶯の声が急に郭公(かっこう)の声になり緑の芝生には馬や羊が悠々と草を喰んでいる。小川にはクキ(ハヤ)が色づきその腹には卵を持つようになった。釣りをしに行った開拓課の加藤さんは十尾ばかりのクキを笹に吊して持って来た。妻はこれを焼いて食卓にのせた。

自然は我々に種々の幸を提供してくれる。うしろの原っぱを散歩していた私と妻はそこに野生の菊芋(いも)を見つけた。菊芋は漬物にしてもおいしく又動物の飼料としても貴重なものである。私は東雄を呼んでこの山の幸を掘らせた。これからが高原賑わう季節である。それは山菜が非常に豊富であるからである。わらび、ぜんまい、蕗など良質なものが無尽蔵にできる。

開拓者にとっては食糧として台所を潤すものであり盛岡あたりからの遠征者にとっては、外山は無限の宝庫なのである。近頃夕方になると遠くの山々の放牧地を焼く煙がそちこちに立つ。広大な放牧地や採草地が焼かれるのは季節の行事である。(一九五二、五、二〇)

山を下るもの山を上るもの

帝室林野局なり県なり獣医学舎なりが何故外山を放棄して山を下りたかという原因をいろいろ考えてみる。その一つに冬が長く寒さが激しいことが考えられる。生活に従業員の慰安も潤いもなく単調と無聊(むりょう)で耐えられなかったことが考えられる。せめて電燈でもあって長い夜が明るく過ごせ、ラジオでも聞かれたらもっと永続していたのではあるまいか。

そこで私は外山に電灯をひくこと、冬の間青年男女の教育をすること、冬期間の室内作業による軽工業を興すことで此の問題を解決したいと考えている。外山節の歌と踊りを皆で習うこともやりたい。屋内に卓球台を設けることは早速やりたい。退屈でない冬、子供も大人もスキーを楽しみ暖かい室で作業をし、又教育を受ける文化とは決して外部になく人間の頭の中にあるのだ。

もう一つは生活形態である。交通が不便なのに米を里から運搬して米を喰う生活。これは経済的にも又労力の上からも非常な負担である。肴でも菓子でも食糧の殆どを盛岡から取り寄せる。これは、冬期間は殊にも厄介である。こんな生活のやり方が長続きしなかったのではないか。

これに対して私は食生活の改善を決意している。先ず外山でとれるものを食糧とする生活。牛乳を飲み、バターで馬鈴薯を喰い、ヒエやソバを喰い、肉を喰う。一日一食位は米を喰うとしても食生活の大部分を現地で自給する生活、しかも栄養の高い食生活、これを私は率先垂範(そっせんすいはん)したい。

これらの外にもいろいろな原因があるであろう。医者も居ない、僧侶も居ない、教育の不完備、ろくな店もなく、工場もない、ないものづくしの村である。しかしこれらに対しては、私は外山を酪農化し酪農工場を実現することで村民に経済力がつきさえすれば徐々に解決出来ると思っている。

村が富み村民が富めばいろいろなものが出てくる。医者も巡回してくるであろうし、僧侶も出てくる。要は困窮した外山を富める外山とすることである。荒涼たる外山高原を花咲く藪川高原とすることである。私はこのような考え方で山を上って来たのだ。(一九五三、六、六)

文化の開拓者

風邪が仲々治らない。喉(のど)に芋を摺(す)って作った瀑布剤を塗布して寝たり起きたりしている。開拓者の私に対する反感は県庁や母村の説得で大分薄らいだと見えて農具を貸してくれたり時々話に来てくれる開拓者もある。

ここは余りな寒冷地の為に果樹が実らないと聞いていたのに野生の李と胡桃が出来るそうである。グスベリーや木いちごもそちこちにある。秋になると山葡萄(ぶどう)が豊富に出るそうだ。そう悲観したものではないと大いに希望をとり戻した。

加藤さん達が山廻りに来て私の寝ている枕許(もと)で雑談しているのを聞いているとこの地方の人々の生活が如何にみじめで文化から遠いということがうなずけた。

中年以上の村民で文字を知らない人が多いこと。新聞を読んでいる人が極く少数であること。読書などする人は殆(ほとん)ど居ないこと、気車に乗ったことのないお爺さんやお婆さん、まして海を見たことのない人は可成り多いこと。焼酎を大きな茶碗で呑み婚礼の時などは徹夜して呑むこと。バケツに柄杓(ひしゃく)で焼酎を呑ませるのが振舞だということ、そして開拓者迄村民の生活を真似て徹夜で焼酎を呑むことを何よりの楽しみとしているということである。

そして、泥酔した揚句はよく喧嘩(けんか)をするそうだ。このような生活は何の文化も教養も潤(うるお)いをもたない生活が此地方の農民と開拓者の生活なのである。私はこの話を聞いているうちに私の使命がいよいよ重大であることを認識し即ち私は土地の開拓者であり酪農の開拓者であるが又文化の開拓者でもあると。私は健全なる娯楽と教養と潤いのある人間生活を此(こ)の土地の人々に与えなければならない。「今に見ろ三年后五年后に此処(ここ)の生活は一変してしまふだろうから」(一九五二、五、二三)

酒一升で結婚披露

旧の正月で郷里へ帰った若人達が二人嫁をつれて来た。渡辺君は新しく貰った嫁さんであり、菅原慶君は久しく別れていた人と又一緒になったのである。菅原君には三つになる女の子もある。

これらの新夫婦を迎えて披露会が二十八日に私の家で行われた。正面に渡辺君夫妻その右手に菅原君夫妻。渡辺君の左手に新入植の鍛冶屋(かじや)さんの佐々木君を据え、私が披露とも紹介ともの挨拶をし、新夫婦を祝福して皆が盃(さかづき)を挙げた。テーブルの上にはお頭つきの干鱈の子もあり吸物もあり赤いかまぼこもある。総じて煮豆や牛傍いりなど野戦料理である。

「小謡(こうたい)」が出る「さんさ時雨」が出る「沢内甚句」や小保内節が出る遂(つい)には部屋が割れるような「外山節」や「馬方節」の合唱が初まる。この結婚披露は日本に於ける生活改善の最高を行くものであろう。

主催は開拓組合ということにして新婚夫婦と新入植者は掟に従って酒一升。出席者は肴代百円ずつと手製の酒を五人で一升づつ〆(しめ)て酒代は八百七十円、肴代は一千二百円合計二千円で二十人の人が充分に呑み食い且つ歓(よろこび)をつくしたのである。

酒を使わぬ披露ならもっと安上がりなのがいくらもあろう。然し酒肴を使ってこんなに安く出来るのも開拓地なればこそである。さて私達の仲間では夫婦者はこれで九組(カップル)となった。子供は十二人である。

この開拓地にも欠乏(けつぼう)しているものは金であり食糧であり文化である。けれ共もっとも深刻な悩みは嫁の欠乏(けつぼう)である。家庭がなくして生活の潤いがなくしてどうして荒れた世界と取組むことが出来よう。開拓者に妻を持せること、これは開拓事業のうちで目立たぬけれども大きな仕事である。(一九五三、三、一)

電灯架設運動

開拓者二十四人と外山部落民五十五人の署名調印をとり電燈施設期成同盟をつくって世話人をあげ県と電灯会社に陳情した。開拓関係では本年度の補助金は既に決定済で見込みがないとの事だった。いま一つの農産課関係の無電灯部落解消の補助金は薮川村は県綜合開発地区だから補助の対象にはなれないとの事であった。

見る処困難だらけである。然(しか)しどんな困難があっても遮二無二(しゃにむに)実現しなければならない。今の時代に一ヵ村全部に電灯がないと云う村のあることもお伽話(とぎばなし)的なことである。

村の中心地の部落には郵便局も学校も巡査駐在所も営林署官区も県の種畜場の分場もあるが、そこに電灯がないのだ。又薮川村は、外山(そとやま)ダムや今度決定した岩洞ダム等の水源地であって電力の供給地であり乍(なが)らその地元に電灯にも電力にも恵まれていないのだ。こんな時代錯誤(さくご)的なことがいつ迄も宥(ゆる)さるべきではない。

又村が貧乏(びんぼう)で村民が何百万円と云う電灯架設費の負担力がないと云って、いつ迄も文化の恩恵から隔離(かくり)されてよいと云う筈はない。電灯や電力は勘(すくな)くとも農民に人間並の生活を与え文化の恩恵に浴せしめ又埋もれたる産業を開発する意味で国や県や社会全般が之(これ)を設備してやる可(べ)きものなのだ。

然し電気会社も県もこの理窟(りくつ)は分っているようであり、実に六ヶ敷(むづかし)いことは云っているが何とかしてやりたいと云う好意の程が見えるようだ。私の大事業の一つ、電灯架設運動はいよいよその緒についたのである。(一九五二、七、三〇)

凱歌

伊藤 勇雄 夢なくして何の人生ぞ

いよいよわれわれの電気問題もどん詰りに来た。昨日の十七日は県の県有財産処分委員会で種畜場の立木の払下げが決定され、電気会社では本社へ了解運動をして銅線を鉄線に切り替えることがほぼ確実化されて来た。昨日は県の池田開拓課長と川村農産課長が自分に同行してくれて盛岡営林署長に会ってくれ協力方を懇請してくれた。然しこの方は殆んと望み薄と見られる。

県の補助金の煩雑(はんざつ)な手続き、県有立木の払下げ事務的な面倒臭さ、電気会社の獨占的営利主義の我儘(わがまま)、地元民や木材ブローカ連の喧々轟々たる雑音此の間に処して自分は夜も昼も心身(しんしん)を労してすっかり疲れ切っている。

外部的な諸問題に加えて内面的な悩みもある。家庭的な悩み、妻との愛情にヒビがはいったのだ。私の頃脳は又深刻さを加えて行く。この嵐の中で今日は開拓課長と高原組合長と立木の処分問題で最終的な協議をする事となった。

三月二十三日。いよいよ今日は立木競争入札の日である。自分は昨夜所用あって盛岡に泊り、今日二番の気車で山へ登って来た。途中木材業者らしい者が見えないので二十日公表二十三日入札の余り日時がないので業者が誰も来なかったのではないかと心配した。

然し学校へ来て見ると四、五人の業者が昨日から来ており業者の顔には必死(ひっし)の競争意識が漂っていた。然るに開拓者が十名ほど酒気を帯びて会場へやって来て自分に会見を申し込んで来た。

会ってみると「今日の入札を延期しろ、種畜場開拓の山を区分して入札しろ」との要求である。自分は公示して業者を寄せて今更延期は出来ない。区分することは一括入札の公示をしたから出来ない。尚おまえ達は入札の一切を自分に委任して委任状へ捺印をしていながら今更文句を言ふのは何事であるか!と逆襲した。

すると彼等はテーブルを叩(たた)き、地だん駄を踏み暴力に訴えても今日の入札を阻止するという態度をあらわにした。後で聞くと二日も前から集合謀議し酒を呑み入札防害を計画していたとの事である。尚この謀議はある木材業者の煽動(せんどう)とも言われて入札時間は接迫し業者は入札執行を迫り開拓者達は喧々轟々として入札阻止せんとし立会は右往左往し全く混乱の状態が現れた。

自分は此の上は暴力を恐れず断呼(だんこ)入札決行の意志を固めた。恰もよし警官がそこに来た。自分は警官に立会を求め警官が会場に入って来た。開拓者たちは一時静粛(しゅく)になった。この時自分は入札執行の宣言をした。入札は順調にすすみその間息づまるような場面も出来たが、遂に四百五十万円で三関木材会社と契約することとなった。

三関木材といえば信用のある良心的な会社で我々がトラック等でも時々面倒を見て貰っており心のうちではやらせたいと考えていた会社である。金額は予定よりも五十万円も高く又不良業者にとられずにすんので凱歌をあげるような喜びであった。入札が終ると開拓者たちは大人しくコソコソと引揚げて行った。

若し不良開拓者たちの威力に怖(おそ)れをなし延期としたり区分したりしたらおそらくこんな高い値で売れることは出来なかったであろう。夜業者たち即ち入札した業者もしない業者も招待し立会人も呼んで亀沢方で盛んな宴会をした。

昨二十五日電気会社に四百万円の金を渡し工事の仮契約をした。総工費五百二十万円(鉄線で了解を得たのでこの金額ですんだのですが銅線なれば七百五十万円かかったのだ。)竣工期日は五月三十一日残金百二十万円は四月中に払込むこととするという条件だ。いよいよ薮川高原に電気がつく。然かも貧乏な部落民や開拓者には金を出させず六百万円の金は私の力で補助や寄附を貰った。

この事業のために私はどんなに骨身を削ったことだろう。どんなに精神的に苦悩したことだろう。全く心身をすり減らした感がある。然し広漠たる十里の大草原地帯、荒れた高原地帯はこの電気の導入によって開発の緒につくのだ。夜、秀清閣で県や電気会社の関係者を招いて慰労会をした。(一九五三、三、二六)

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