宮沢賢治と私– 大女優、長岡輝子先生との出会い –

関東で待ち構えていた岩手県盛岡出身の
大女優「長岡輝子」先生との出会い

1982年(昭和58年)4月 神奈川県川崎市高津区久本にあった多摩芸術学園演劇科(現多摩美術大学二部)に入学。演技指導・朗読・卒業公演の演出を講師として指導されていたのが、岩手の大女優 文学座の長岡輝子先生です。私に宮沢賢治のいろはを強制的に叩き込んで下さった当時の私にとっては最強最悪の恩師です。

ちょうど国民的ドラマの代表作NHK朝の連続テレビ小説「おしん」(日本のTVドラマ史上、最も高い平均視聴率および最高視聴率を誇り、1983年~1984年にかけて放送された)。長岡輝子先生は加賀屋の大奥様「八代くに」役で出演していた時です。

私にとっては最悪の先生との出会いでした。なぜなら、岩手を代表する詩人・童話作家の宮沢賢治をこよなく「愛する人」だったからです。朗読に使用する教材は全て宮沢賢治の詩・童話作品でした。しかも、方言、盛岡弁での強要。一年生の夏の発表会で他の生徒は自分の好きな詩人の朗読は許されても、私一人だけは宮沢賢治オンリー。

ちなみに、一年生の夏の発表会で朗読した宮沢賢治の詩は『春と修羅』/グランド電柱にある〔高原〕でした。

高原 『春と修羅』/グランド電柱

海だべがど、おら、おもたれば
やつぱり光る山だたぢやい
ホウ
髪毛(かみけ) 風吹けば
鹿(しし)踊りだぢやい

選んだ理由 ①朗読を早く終わらせたかった ②短い詩で唯一共感ができ、私の実体験で思い描くことが出来た作品だったからです。私が宮沢賢治の詩を勝手に解釈し、天峰山から見た岩手山の光景で、盛岡市内が雲海ですべて見えなくなり岩手山しか見えない状態を思い出し表現しました。

長岡輝子
中央下が長岡輝子先生、上段右から2人目が私(中村)
多摩芸術学園の校舎前にて

長岡先生から私に「自分の出身県の作家と方言は大切にしなさい」というので、岩手県玉山村出身で同郷の石川啄木の詩を選択するも「石川啄木の詩は好きではない」との一言で却下。淡谷のり子かよと、心の中で呟いていました。「あなたの盛岡弁は盛岡弁になってない。帰省した時きちんと勉強してくるように!」ダメ出しまで出され。役者にとって訛りは致命傷なはずなのに…? 薮川外山から川崎市まで約600km離れた関東で、何で方言?意味わからん。

私が関東に出てきた80年代は「小劇場」第三世代。つかこうへい劇団、野田秀樹の夢の遊眠社、渡辺えり子の劇団3○○、鴻上尚史の第三舞台、三谷幸喜の東京サンシャインボーイズ、吉田日出子の劇団自由劇場、等々と様々な劇団が乱立しており、芸能界ではマッチ、トシちゃん聖子ちゃんが華やかに活躍している同じ関東で……俺、何しに関東に来たのか。

長岡先生の朗読の授業が、本当に憂鬱で仕方ありませんでした。朗読の授業が近づく度に課題である宮沢賢治作品を復習しておかなければならず。私とは対称的で金持ちのボンボンがこんなに沢山の作品を残した宮沢賢治を何度恨んだことか。

「宮沢賢治! 宮沢賢治!! 宮沢賢治!!!」

「あーっ、うるせいクソ婆!(当時の、私の心の叫びです。あの時は本当にすいません)」

卒業式に演劇科担当教諭の庄山先生から、同じ郷土の盛岡市から入学してくる私のことを知った長岡先生はとても喜んでいた事を聞かされました。「同じ郷土の愛の鞭。スパルタだったのか……」確かに、私の多摩芸術学園の三年間、朗読・演技の授業・卒業公演は東北弁の作品が多かったです。

長岡先生から、宮沢賢治を強制的に仕込まれたおかげで、書店にならんでいる宮沢賢治作品は一通り読み終え、宮沢賢治がどの様人生だったかかも普通の人より知る事ができました。当時18歳~20歳の青春真っ只中、やっと宮沢賢治から卒業できたと思ったら14年後、池上先生の本に巡り合ってしまいました。

長岡輝子先生に宮沢賢治のいろはを強制的に叩き込んで下さらなかったら、池上先生の本に敏感に反応する事はなかったと思います。当時は心の中でさんざん悪態つき、大変申し訳ありませんでした。今では、感謝しております。本当にありがとうございました。

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