外山開牧百年史– 興味深い部分を一部抜粋 –

『外山開牧百年史』より一部抜粋

外山御料牧場電話室ガラス戸 大正時代 盛岡市 吉田久平氏蔵
外山御料牧場電話室ガラス戸 大正時代 盛岡市 吉田久平氏蔵

二、概 況
(一)足沢勉氏思い出の記
前記足沢場長の事績についてはこの「思い出の記(昭和二十六年)」に詳述されており、当時の概況をうかがうにはこれ以上のものはないと思われるので、そのまま、ここに掲記することとした。

県種畜場は明治三十一年の創始にかかり、盛岡市内丸に設置された種馬鹿がその始まりである。これが同三十四年に岩手県種畜場と改称され、翌三十五年六月、岩手郡滝沢村に移転した。当時滝沢村の国有地三百六十町歩を借り受け、その後、一部を返還したが、なお百八十余町歩を経営した。初代一条牧夫場長はわが国最初の外国種牡馬を輸入した、本邦馬産界の功労者であったことは世人周知のことである。

二代場長小笠原政氏は盛岡の人、長年、県の畜産係で、のち大分県種畜場長を経て、一条氏の後継者として赴任した。三代場長板垣耕三氏も盛岡の人、県畜産係より岩手種馬所、長万部種馬所の係長を経て赴任した人で、以上三人とも齢五十を越えた経験家ぞろいであった。前場長は齡六十四歳で辞任したが、その後任として、未だ三十九歳の若輩の私に発令があったのだから、自分自身でさえも、はたしてこの重責を果たし得るや否やを、気づかったくらい。世間でも二、三年もつとまったらよい方であろうと思っていたらしい。

大正十一年十二月には、さらに宮内省経営の御料牧場外山分場の用地(前記)とその建築物、備品、耕馬、貸付馬等に至るまでいっさいを本県に貸与することになったのである。これが経営に当たっては、移住民四十三戸の生活をも顧慮しなければならず、並みたいていの仕事ではなかったのである。

大正十四年三月、発令と同時に私は単身赴任して、官舎において自炊生活を始めた。この頃の山田線はまだ上米内駅までしか開通していなかったから、出県には乗馬または馬車で四里の道を往復せねばならなかったのである。また生活用品は場員、牧夫で購買組合を組織し、御料牧場時代から御用商人をやっていた盛岡市油町の吉田与四郎商店より供給を受け、電話も設けてあったから、いろいろと同商店には迷惑をかけたものであった。

○大志田信号所を駅に昇格
七月と思う。飛鳥(あすか)トンネルが開通したので、現場では盛大な祝宴が開かれ、来賓数百名を上米内駅からガソリンカーで輸送し、幡、本街の芸妓の手踊等もあり、盛会であった。

ところが、来賓に配布した山田線の設計図面によると、大志田は信号所となっていたので、かくては、種畜場はもちろん、模範林経営上、重大な問題であるとし、後藤知事より建設部に交渉してもらい、安部所長、四十万技師一行の来場を乞い調査の結果、駅に昇格させ、設計を変更してもらうことになったのは、私の着任早々の痛快事であった。

○外山神止と牛馬魂碑建立・駒踊りの移入
外山部落は三十余年間、宮内省が経営したところで、四十三戸の移住者のほかに民家もあるけれども、子供が生まれても初詣でをする神社もなく、住民永住の地としては、まことに遺憾なことであった。また明治九年来、同地において死亡した数千頭の、本県畜産に功労のあった種牛馬の霊の供養などもなさねばならず、かく考えて来ると、永遠の策を樹てねばならない。私はそこで事情を訴えて、県内畜産家にその資金を募ったところ、直ちに二千七百余円の寄附が集まり、それをもって神社を建立し、天照皇太神を祀った。

また、後藤知事の揮毫を乞うて、牛馬魂碑を立て、大野村より駒踊りを移入し、八月十七日には来賓多数の来場を得て、厳粛次祭典を施行することができた。神社に対しては、主馬頭伊藤博邦公の賛同を得、宮内省より銀覆輪の和鞍一背を宝物として戴き、津村林野局東京支局長のご尽力により、伊勢太廟用村の一部を送っていただき、額を納め、残木にて守札を作って寄附者に配布した。以来今日まで、外山神社の祭典は八月十七日に例祭日として施行せられているのである。

大正十五年春から、私は一家を挙げて、外山に生活する。そして専心業務に精励することにした。お蔭で種畜場予算も、着任当時は三万五千円ぐらいのものであったが、数年にして七万余円となり、事業も拡張することができた。春から夏にかけて、県よりは部長や知事、農林省、帝室林野局、宮内省会計審査局等から長官や課長達がこられることが多く、応接にいとまがなかったが、幸い場内には御料牧場時代お客間といったりっぱな建物もあり、設備も十分であり、家内もおったのでお客様方の待遇には事欠くことがなかった。(中略)

石黒長官時代のことであった。伏見宮博秀王殿下(当時海軍中尉で太平洋戦争中、南洋方面で飛行機の墜落のため戦死された方)は家令、尾野大将、御附武官山岡少佐、加藤宮内属を随伴、本県に銃猟に来られた。その時は五日間にわたり、渋民村、玉山村、川井村にご案内申し、また外山お客間にもご一泊を乞い、盛大な兎狩りを挙行したこともあった。なお、秩父宮同妃両殿下が松尾礦山にご一泊の際は、外山から駒踊り連中を同道、駒踊りをご覧に供し、親しく御下問に奉答するの光栄に浴したこともある。

外山駒踊りの由来
駒踊りというのは南部公が、甲斐国から三戸城に移ってきたとき、もたらした三名物の一つであるといわれる。その一はチャグチャグ馬子(蒼前詣)、一は田植え踊りとそれにこの駒踊りであった。ところがその後、南部さんが盛岡に移るとき、前の二つだけをもってきて、駒踊りはどうしたわけか三戸に残しておいた。本県としては当時、九戸の大野村にただ一つ残っていた。このことを伝えきいた足沢場長が、馬産地の本県として、はなはだ物足りないから、ぜひこれを新名物にしようとて、外山神社の付属として駒踊りを入れることにし、師匠を大野から頼んできてできたのが外山駒踊りの始まりである。

(二)外山神社の建立地とその後
外山神社はもともと蛇塚の西北にあたる細越山頂に建立され、牛馬魂碑もその境内に建てられた。以来、山頂の風雪にさらされること約四十年、その腐朽はなはだしく、かつまた参詣その他何かと不便もあったなどのことから、県の了解を得て、これを山麓におろすこととなり、昭和三十八年八月を下し、県道沿いの現在地に移築された。牛 馬魂碑はその後も山頂に残されていたが、これも最初の建立の趣旨に沿い、県の了解の下に、昭和五十一年七月、外山神社境内に移された。

大志田駅の開設
大志田駅ができて実際に利用され出したのは、しばらくのちのことで、それは昭和三年末期のころからである。牧場からは、現在の外山ダムの東端あたりから左に川を渡り山道に入る。登り道である。馬車の場合はしばらく行った峠の平坦な場所で降りる。そこから徒歩となる。最後はものすごい急峻なくだり坂だ。これを滑りおちるようにして一気に大志田駅の手前にたどりつく。

このひきかえしはたいへんである。駅に降りて近くの踏み切りを渡るとすぐその急な坂道にかかる。乗馬の場合なら別だが、徒歩では始めからあえぎあえぎ、かなりの距離を登らなければならない。やっとの思いでこの急坂を登りつめたときはやれやれといった気分になる。しかし、しばらく爪先上がりの道を歩いたのち、峠から眺める北上山系の景観はまた格別である。特に冬景色がよい。見渡たすかぎり山々は遠く紫にけむり、山紫水明とはまさにこのことだと、いつも感慨に堪えなかった。(写真参照)

(四)余技のあれこれ
蛇塚の西厩舎(四号)の前にテニスコートが一つ設けられていた。コートとは名のみ、石ころだらけのひどいところで元の馬検査場をひろげてつくったもの。白いラインもなく、代わりにわら繩で仕切りをつくったりした。ラケット、ボール、ネットなど、一そろいの道具は厩の扣室に置かれていた。このコートは場員たちの唯一の娯楽スポーツの場所でもあり、夏の夕方など、仕事を終えた人たちが集まってきた。お互いに適当にチームを組み、一日の疲れも忘れてテニスに打ち興じ、好試合を演じた。それで、ほとんど暗くなるまで、快適な球音と時々おこるかん高い歓声であたりをにぎわした。

足沢場長さんは銃猟の名人でもあった。またいろいろ動物の剝製も上手につくられた。そんな関係で、場員の中には三浦、斉藤、徳田等々、いずれ劣らぬ狩猟のベテランがおられた。秋口から冬にかけて、これらの人たちは猟犬を伴って場内のあちこちに雉子や兎の狩猟によく出かけられた。また当時、冬になると毎年のように場員一同による兎狩りが恒例の行事とされ、そのあとで関係者たちの慰労懇親会がにぎやかに催された。(口絵写真参照)

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