外山牧場について– 近代牧場の歴史遺産を後世に伝えたい –

外山という地に西洋牧場が開牧された訳

明治9年 (1876) 巖手縣岩手郡藪川村字外山に島惟精県令は全国に先駆け西洋技術を導入した「県営外山牧場」を開牧。現在、日本国内はもちろん岩手県内でも牧場・農場は沢山あり、私たちにとって身近なもので牧場も農場も珍しいものではありません。

また岩手県は南部藩制時代、南部馬の馬産地・流鏑馬・南部曲り家など地域の歴史として「馬」について学校で学ぶので、明治9年に「県営外山牧場」が開牧した事は、特別なことではなく普通のことと何ら変わりません。この現代の感覚・認識が、歴史の落とし穴です(私が、はまりました)。

認識ポイント①
牧場とは明治に作られた言葉

牧場とは、西洋式の技術を取り込み、下記の条件を満たしたものが牧場と名乗れる。

  • 牛、馬、羊などの家畜を飼育、管理するため放し飼いにする場所がある事。
  • 畜舎、衛生室、堆肥舎、サイロなどの付属施設のほかに牧柵、給水場や庇陰林、防風林などを設ける。
  • 立地条件としては、土地は高燥、土質は牧草栽培に適し、傾斜は少く、排水がよく、水利の便がよい事。
認識ポイント②
明治以前の藩政時代、馬を飼育する所の名称
  • 藩政時代の馬産地で馬を飼育する所は「牧」「馬牧(うままき)」
  • 南部藩の馬産地の場合は「牧馬(まきば)の木戸のあった場所」として「戸」
    一戸・二戸・三戸・四戸・五戸・六戸・七戸・八戸・九戸
認識ポイント③
外山に牧場を開牧するということは…
  • 当時の最先端西洋技術「土木・建築・畜産・農業・林業・獣医学・農学等々」が必要で、日本国の威信にかけた一大事業となります。この外山の地より「日本の第一次産業の文明開化」が始まります。そして、後に宮沢賢治と保阪嘉内が廻り合う「盛岡高等農林学校創立」につながります。

『外山開牧百年史』について

『外山開牧百年史』は、昭和51年に外山での牧場開牧百周年を記念し発行されたものです。編集者は三浦定夫氏で、大正11年に閉鎖された外山御料牧場の職員(育馬係御料牧場技手)三浦熊五郎氏のご子息で、外山で生まれ11歳まで御料牧場内で過ごし当時の様子を知っている唯一の人物でした。

昭和48年、半世紀ぶりに外山に訪れあまりの変貌に驚愕し歴史だけでも後世に残そうと、収集が難しい宮内省の資料や当時の写真を苦労して集め編集した岩手県にとって貴重な資料です。

三浦先生がお亡くなりになり、数年経っても盛岡市の活性化は一向に進まず。活性化のお役には立ちたいが私自身もいつまでも関わっているわけにもいかず、御料牧場と宮沢賢治に関する資料収集は岩手県か盛岡市に預け、役立てて貰おう思う旨を外山開牧百年史を編纂した故三浦定夫氏の奥様の幸子氏にご報告を致しました。

奥様が私に問いかけてきました。「百年史を編纂した三浦の意思を受け継いだのは誰ですか?」「宮沢賢治と外山の繋がりを見つけ志半ばで亡くなった池上さんを良く知るのは誰ですか?」「あなたの生れ育った故郷はどこですか?」「あなたの他に誰がやるのですか?」全て「…私です」と言い切るほかに選択の余地はありませんでした。

そして、三浦先生の著書の『牛の白血病』と『外山開牧百年史』を編纂するにあたり資料にした久合田勉著書の『馬学(外貌篇・種類編)』、馬に関する書物。先生が収集した数々の宮沢賢治の本。そして先生が生前書き留めた「思い出ノート」を差し出し、「活動にお役に立てなさい」と差し出してくれました。さすがに、「思い出ノート」はご遺族のものなので受け取るわけにいかずコピーを取らせていただくことにしました。

外山牧場と百年史 
岩手大学農学部教授 三浦定夫

早池峰第六号 特別寄稿

「外山で去年、開牧百年祭をやった」といっても多くの人にはピンとこないかも知れません。それもそのはず、当の関係者たちですら外山の百年などということに全く関心がなかったくらいでしたから。外山といえば「あの山中で御料牧場だった」くらいの認識が一般で、まだそれでもいい方ではないかと思います。

ところが、外山はそれ以前の明治九年に、時の県令、島惟精氏により、畜の最適地としてここを選定され、初めて県営牧場を開設された場所なわけです。それから数えて昨年がちょうど百年目に当たりました。

むろん、この間にはいろいろな変遷がありました。牧場発足後約五年、明治十四年に産会社が創立されるに及び、外山牧場は県営から同会社に移管され、民営牧場となりました。これは上田農夫氏を中心とする熱烈な有志らの運動により実現したものでした。

しかし、それもやがて各組相互の紛糾がもとで経営難に陥り、十年そこそこで遂に瓦解するに至ったのです。そこで牧場とその家畜が処分されることになり、県の斡旋の労などもあって、遂に宮内省の買い上げがきまったわけです。明治二十四年のことでした。外山御料牧場が発足したのはそういういきさつによるものです。

外山牧場は県営、民営を通じ、約十五年に及びましたが、この間それでも、当時県内唯一の種畜場として、馬産改良その他に多大の貢献をされました。開牧当初には中央から、岩手厚雄氏その他二名のほか、英人マッキノン氏を農業教師として招聘し、牧場の開墾に着手、のちには馬産の守護神と仰がれた一条九平氏(のちの牧夫翁)牧場長に迎え、わが国最初の洋血注入による馬産の改良をはかり、さらには当時全国でも稀有だった獣医学舎をこの山中の外山に設置、農牧あるいは獣医技術者の養成に当たるなど、まさに注目すべき事績を挙げたといえましょう。

この獣医学舎は明治十二年に、現在の外山ダム水口付近に当たる当時の外山牧場内に設置され、約一年三ヶ月で盛岡に移転となりました。これが、現在の盛岡農業高校の濫しょうをなしているわけです。

※ 提供:三浦幸子氏(三浦定夫氏の配偶者)

外山御料牧場は、当時県民の非常な期待の下に発足されたようです。これは宮内省主馬頭だった藤波言忠子による同牧場沿革誌(明治三十七年)にその頃の模様が詳述されています。それによると、買い上げ当初、文字どおり荒廃していた牧場を非常な苦心努力によって、整然たる牧場に立て直し、全く面目を一新したというものです。

この頃の牧場用地は約一一〇〇〇町歩に及びました。産馬も著しく改良され、年々優良馬を生産、一部皇室用に、他は盛岡のおせりに出されました。軍馬や種馬候補として外山馬が有名になったのも、この頃からといえます。牧場では多数の人夫を入れて、野草刈りを盛んに行ない、これを馬に食わせました。それで草刈時期には玉山、滝沢、川口など、近郷近在から二~三百人人たちがここに集まりました。

岩手の代表的民謡の一つである「外山節」もこのような草刈作業の中から生まれたものだといわれています。かくして、外山御料牧場は三十有余年の長きにわたりましたが、大正十一年、時の緊縮政策のあおりを受け遂に廃止となりました。翌大正十二年、外山牧場は再び岩手県に移管となり、今度は県営種畜場の発足となりました。滝沢にあった本場が外山に移され、滝沢は分場となりました。外山本場初代の場長は板垣耕三氏でしたが、二年ぐらいで退職され、大正十四年に二代目場長として足沢勉氏が着任されました。

足沢場長は当時三十九才の若さでしたが、なかなかの手腕家で、昭和十二年本場の滝沢復帰に至るまで、前後十三年にわたり外山に在勤、この間、画期的な多くの事績を残されました。着任早々、大志田信号所を駅に昇格させたり、県内畜産家から資金を募って外山神社を建立、牛馬の碑をたて、大野村から師匠を呼んで外山駒踊りをおこす等々、いわば官民一体の全盛期を思わせました。

当時、種畜場には優良種雄馬および種牛(短角種が主)が多数繋養され、これらによって本県の産馬および産牛の改良がはかられました。英国や仏国から輸入された種雄馬だけでも当時、二〇頭ぐらいおりました。そのほか広大な放牧地には近隣市町村から預託された多数の牛馬が放牧育成されました。その頃の牧場事情については、後藤清郎氏(岩手日報主筆のちの社長)や佐伯郁郎氏(詩人・現生活学園短大教授)により、日報紙上に詳しく報道されましたし、かなり一般の関心を呼んだものと思います。

しかし、これまた長くは続かず、昭和十二年に国防上の必要という時代要請から種馬育成所の放牧地として約四〇〇町歩を農林省に寄附することとなり、これに伴い、外山は残部約二、二〇〇町歩をもって種畜場分場を経営し、本場は再び滝沢に移転しました。それだけではなく、蛇塚平にあった事務所、厩舎、官舎、客間等いっさいの建物は悉く撤去移転され、同地における昔の面影は全く失われるに至りました。かくして終戦を迎え、事情はまた大きく変わりました。数え上げればとてもきりがないくらいです。

戦後、今日まで約三十年、農林省放牧地は県に再移管それらの多くは開拓入植者に解放されました。そして種畜場分場は昭和三十七年から、畜産試験場外山分場に衣替えされ、現在に至っています。以上は外山開牧以来、今日まで約百年にわたる変遷のあらましです。

さて、この外山は私にとっては特に縁の深い場所なのです。というのは、私は御料牧場時代の後期、明治四十五年にこの牧場の中で生まれ、少年時代をここで送りました。盛岡在学中も、夏冬の休みという休みには欠かさず、外山に帰り、休み中をそこで過ごしましたので、約二十年間の思い出を持つ古里というわけです。

昭和七年に学窓を巣立ってからは、すぐ軍隊に入ったので、その後の外山の様子は全く知らず、実は終戦後、盛岡に帰ってはじめてそれらの事情を関係者からきいたような次第です。戦後の混乱期で私も無我夢中、日常生活に追われ、落ち着かず、とても古里を訪れる余裕はなく約十年が過ぎました。

昭和三十年の秋、学生時代を最後とした外山を約二十三年ぶりで訪れました。そして蛇塚原頭に立った私は、そのあまりにも変わり果てた情景に、思わず「国破れて山河あり」を口ずさみました。その山も見る影もない坊主山となっていました。元住んだ官舎など、むろんある筈はなく、かわりに開拓農家の家が一軒ぽつんと建っていました。ただ、そのまわりにあった庭木類だけが大きくなり、老木ながらも辛うじて昔の跡を偲ばせてくれました。「桃季不言、春暮」ということを、このとき初めて実感として味わったような気がします。その後、何回か、茸とりその他で外山を訪れましたが、主に大の平付近までで、蛇塚まで行くことはありませんでした。

昭和四十四年の春、急に気が向いて蛇塚を訪れましたが、そのときはただ往時を偲びながら付近をぶらついてきただけでした。それから四年後の昭和四十八年の春、また思い立ってそこを訪ねました。そのとき、偶然に先の開拓農家の方と出会いました。この人の名は深沢勘一さん(薮川そば店主)といって昭和二十七年に沢内村から入植されたということでした。さっそく招じ入れられてお互いにいろいろと昔話をしました。その際、期せずして話題の中心になったのは外山の将来ということでした。その中で特に心をひかれたのは次のようなことでした。

戦後、この近くへの入植者は地元関係者のほか、徳田分村、東磐井郡下、沢内村などからで五十戸近くもあった。しかし、これらの中には入植当時のきびしい生活条件に耐えきれず、早々に離農するものもあれば、時あたかも昭和四十六年ころから訪れた土地ブームに便乗して入植地を売り払い離嶷するものもあり、現在ではわずか一八戸が定着しているに過ぎないという。なんとかこの辺で歯止めを考えなければ、せっかく苦労して力を入れてきた外山の畜産も心配になるというようなことでした。

そのためにもぜひ長年にわたる貴重な外山の畜産史を書き留め、それについての人々の認識を深めなければ……ということにもなりました。地元の心ある人たちも折々そんなことも話し合っていた様子で、学校の先生に相談したこともあるが、やはりなかなからちがあかないので……という話でもありました。

考えてみると、当時の牧場長や職員の方々は皆他界され、も早この世に誰もおられないということも感じ始めました。そうなると、自らを顧み、古い時代のことを知っているのは私以外になくなったのかと、寂しさと責任感の入り交った一種複雑な気持ちになりました。私も何かと多忙な現在であり、外山史なんてとうてい容易なことではないと思いましたが、なんとかお互い協力してやりましょう!などと口約束をして帰りました。

こんなことが直接のきっかけとなり、暇々に関係資料を集めているうちに、ふと気づいたのが、明治九年(一八七六年)から数えて昭和五十一年(一九七六年)はちょうど百周年に当たるということでした。それは同年の八月頃のことです。九月の初め、さっそく外山の有志らとはかり、三年後の五十一年に、これを記念して百年祭を挙行し、同時に記念誌を出し、今後の発展を期そうということになりました。このような経緯を経て、昨年八月十七日、外山開牧百年祭が盛大に催され、また記念誌としてその百年史の刊行に至った次第です。

三浦 定夫 略歴

三浦定夫『外山開牧百年史』
提供:三浦幸子氏(三浦定夫氏の配偶者)
明治45年04月03日岩手県岩手郡玉山村外山に誕生
昭和07年03月18日盛岡高等農林学校獣医学科卒業
昭和15年04月29日勲四等旭日小綬章叙勲
昭和26年09月23日岩手県獣医師会会長
昭和30年12月28日獣医師免許審議会委員
昭和53年05月18日岩手大学名誉教授
昭和60年04月29日勲三等旭日中小綬章叙勲
平成02年05月25日(社)岩手県獣医師名誉顧問
平成03年05月24日岩手県県勢功労者表彰
平成13年04月25日永眠(享年89歳)

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