馬と共に栄えた岩手の歴史– 県営外山牧場と外山御料牧場 –

「日本の文明開化」は
本州一の寒冷地 、薮川外山から始まった

外山御料牧場跡地

明治9年 (1876) 巖手縣岩手郡藪川村字外山(現盛岡市玉山区薮川外山)。当時の島惟精県令(当時の県知事)は、 全国に先駆け西洋技術を導入した「県営外山牧場」を開牧しました。外山牧場が開牧した事で、明治12年獣医学舎(現岩手県立盛岡農業高等学校)が設けられます。前年日本で初めて開校した駒場農学校(現東京大学農学部)に次ぐ二番目の開校になります。

その後、岩手県馬産会社、岩手県馬産組合と組織が移り。明治24年 宮内省が買上『外山御料牧場』として開牧。同時に「小岩井農場」を補助し開場の協力をします。大正12年に「岩手県種畜場」に移管。昭和39年「岩手県畜産試験場」改称。平成9年「岩手県農業研究センター 畜産研究所 外山畜産研究室」と組織を再編。運営組織は変わる中、牧場のバトンは確実に現代に受け継がれています。

明治24年の「外山御料牧場」開牧から大正期にかけ、岩手の馬事・畜産・文化が発展し開花します。日清・日露戦争の教訓から、国は馬政局を設置し馬の品種改良に拍車をかけます。馬産地である岩手県は「外山御料牧場」を中心に、種馬育成所、種馬所、軍馬補充部六原支部、馬検場、黄金競馬場、騎兵第三旅団や高等農林学校等々と、馬に関するあらゆる機関を次々に設置し世界の畜産史上前例が無い速さで品種改良の成功をおさめました。その様な輝かしい牧場の歴史がある反面、残念な事に在来種の南部馬・南部牛はこの世から消えてしまいました。また三度の戦争で多くの軍馬が犠牲になったのも歴史上の事実です。

開拓詩人 伊藤 勇雄 夢なくして、何の人生ぞ

さまざまな種類の品種改良により、広大な岩手県の田畑・山林は開墾が進み。土木・建設・運送も飛躍的に発展します。馬事・畜産産業の発展は経済にも大きく反映され、盛岡市の街にも大きく影響して行きます。馬検場の馬市では多くの人が押し寄せ、肴町には岩手銀行を始めとする重厚な銀行が建ち並び、八幡町の花街文化が栄え、盛岡劇場が誕生し、チャグチャグ馬っこをパレード形式に変えてしまいます。

外山では「外山節」が生まれ「駒踊り」が移入。歌人の藤波言忠(明治天皇の側近)、詩人の宮沢賢治、佐伯郁郎、伊藤勇雄。彫刻家の後藤貞行といった文化人も訪れ多くの作品を残しております。

外山に牧場が開牧したことで、岩手県の馬事文化に大きくな影響を与えましたが、その事を知っている岩手県民・盛岡市民はあまりおりません。『外山御料牧場』時代の歴史がベールに包まれていた事や、第二次世界大戦後にGHQの指導で馬事関連が破棄された事が要因となります。

こうした中、明治9年に外山牧場が開牧しまもなく150年(令和8年)の節目の時が来ます。私たちは「日本の文明開化」の基盤となった岩手県の第一次産業の「歴史遺産」を広く発信し次の世代へ引き継いでいきます。

【私の思い】寒冷地という過酷な環境下の中あらゆる困難に耐え、外山に移住し事業に携わった牧場関係者と各世代の開拓入植者に感謝し長年の功績を称え、また牧場の基礎として今日まで事業を支え続けた幾多の牛・馬、明治以降の戦争で多くの犠牲となった軍馬の慰霊・鎮魂。

これを機に、外山地区と異なる「塩の道」で発展した薮川地区(町村・岩洞)の歴史・文化を広く知ってもらいたい。薮川の新たな魅力と、寒冷地の土地を最大限活用し成功を収めた先人の開拓史を再検証することで次世代の将来に繋がる「令和の開拓」ができれば…と切に願っています。

※ 上の写真は、開拓詩人 伊藤勇雄氏の『夢なくして 何の人生ぞ』の石碑の前にて私。

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